核磁気共鳴(NMR)スペクトルに予想外のピークが現れたとき、最初に確認したいのは測定溶媒と水です。ただし「7.26 ppmだからクロロホルム」と位置だけで決めると、試料や別の不純物の信号を見落とすことがあります。この記事では、9種類の重水素化溶媒の目安をまとめ、ピークを位置・形・ほかの信号・調製履歴の順で確かめる方法を説明します。数値は主にFulmerらの298 Kでの報告値です。測定条件が異なれば実測値も変わり得ます。

すぐに数値を調べたい場合は、NMR溶媒・水・不純物ピーク検索ツールで核種と測定溶媒を選んでください。この記事の表は全体を見渡すための早見表、ツールは個々のppmを調べるための入口です。

最初に区別する三つの信号

重水素化溶媒の残留プロトン、溶媒中の水、試料または不純物の信号を分けて確認する流れ
NMRの未知ピークは、溶媒・水・不純物を候補として順に照合する。
  • ¹Hの残留溶媒ピーク:重水素化溶媒にも少量残る、水素を持つ分子種に由来します。例えばCDCl₃中のCHCl₃は約7.26 ppmです。
  • ¹³Cの溶媒ピーク:重水素化溶媒自身の炭素の信号です。CDCl₃では中心が約77.16 ppmで、重水素との結合により通常は三重線として見えます。¹Hの7.26 ppmと同じ意味の「残留プロトン」ではありません。
  • 水・その他の不純物ピーク:水は溶媒や温度、濃度、水素結合の影響を受けます。洗浄・抽出に用いた有機溶媒も持ち込まれます。これらは試料由来の信号と重なることがあります。

化学シフトの軸は通常、左側が高ppmです。表の値はピーク中心または文献記載位置の目安で、ピーク強度や積分値を示しません。

重水素化溶媒9種類の早見表

下表の¹Hは残留溶媒に由来する位置、¹³Cは溶媒の炭素信号の位置です。複数の位置がある溶媒は併記しました。水の値は¹Hの目安です。単位はすべてppmです。

↔ 表が見切れている場合は、左右にスクロールしてご覧ください。↔ Scroll the table horizontally to see any hidden columns.

測定溶媒¹Hの残留溶媒¹³Cの溶媒信号水の¹H目安
クロロホルム-d(CDCl₃)7.2677.161.56
ジメチルスルホキシド-d₆(DMSO-d₆)2.5039.523.33
メタノール-d₄(CD₃OD)3.3149.004.87
アセトン-d₆2.0529.84、206.262.84
アセトニトリル-d₃(CD₃CN)1.941.32、118.262.13
ベンゼン-d₆(C₆D₆)7.16128.060.40
ジクロロメタン-d₂(CD₂Cl₂)5.3253.841.52
テトラヒドロフラン-d₈(THF-d₈)1.72、3.5825.31、67.212.46
重水(D₂O)4.79(HOD)なし4.79(HOD)

D₂Oの読み方:HODは水素と重水素を含む水の信号です。この表では水の欄にも同じ4.79 ppmを示しますが、二本の独立したピークが生じるという意味ではありません。D₂Oには炭素がないため、溶媒由来の¹³Cピークもありません。

多重度にも注目:重水素とのカップリングにより、CDCl₃の¹³C信号は三重線、DMSO-d₆の¹³C信号は七重線として扱います。測定やデカップリング条件により見え方は変わり得るため、ツールの多重度表示も参考情報として読んでください。

実例:CDCl₃で測った¹Hスペクトルをどう読むか

次の図は実測データではなく、文献値の位置関係を示した模式図です。線の高さは含有量を表しません。酢酸エチルを例にすると、約2.05 ppmの一つのピークだけでなく、約4.12 ppmと1.26 ppmに対応する信号があるかを調べます。

CDCl3中の残留クロロホルム、水、酢酸エチルの位置関係を示すNMR模式図
CDCl₃中の¹H:溶媒7.26、水1.56、酢酸エチルの目安4.12・2.05・1.26 ppm。高さは強度を表さない。
  1. 測定溶媒を確認する。 CDCl₃なら、残留CHCl₃の約7.26 ppmを候補にします。基準合わせに使った信号と重なる場合もあります。
  2. 水の目安を見る。 CDCl₃中の約1.56 ppmは参考値です。水素結合や試料成分で移動するため、1.56 ppmから離れたから水ではない、と直ちに判断しません。
  3. 複数の信号をセットで照合する。 酢酸エチルを疑う場合は、約4.12 ppmの四重線、2.05 ppmの一重線、1.26 ppmの三重線を確認します。試料と重なれば積分比を機械的に当てはめられないこともあります。
  4. 調製履歴と照らす。 抽出・カラム精製・再結晶で酢酸エチルを使ったか、試料の構造から同じ領域の信号が予想されるかを調べます。

トルエンの芳香族信号はCDCl₃の残留ピーク付近にも出ます。近いピークをひとまとめに「溶媒」として除外すると、試料または混入物の情報を失います。約2.36 ppmのメチル信号など、離れた位置の手掛かりも確認してください。

水ピークはなぜ動くのか

水のプロトンは周囲の分子との水素結合や交換の影響を受けます。測定溶媒、試料の酸・塩基性、含水量、温度によって位置と形が変わります。特に水酸基(OH)やアミノ基(NH)の信号は交換の影響もあるため、文献のppmを厳密な判定線として使わないでください。¹Hだけで判断しにくいときは、乾燥状態や試料調製を見直し、必要に応じて別の測定条件や追加測定で確かめます。

「同じppm」に複数候補が出たとき

ピーク検索ツールは、入力したppmの周囲にある文献値を一覧にします。これは候補探しであり、自動同定ではありません。検索幅を狭くして候補を減らす前に、基準合わせが適切か、スペクトルの核種と測定溶媒が正しいかを確認します。

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確認すること何が分かるか注意点
位置・多重度候補に矛盾がないか重なり、分解能、交換で形が変わる
同じ候補の別の信号一点一致より強い根拠になる試料信号との重なりも考える
¹Hの積分・¹³Cの本数化合物の整合性を見られる交換性プロトンや定量条件で単純比較できない
調製履歴・ブランク持ち込み源を推測できるブランクにないことだけで試料由来とは言えない
別条件での再測定仮説を検証できる条件を変えれば化学シフトも変わり得る

検索ツールには、常用の不純物と掲載不純物すべてを切り替える機能があります。候補が出ないことは「その物質が存在しない」証明ではありません。対象は収載された9溶媒と不純物に限られます。

Chemlioraのスペクトル予測と組み合わせる

構造式から予想される信号と実測スペクトルを考え合わせたいときは、Chemlioraの構造式・NMR機能も利用できます。¹H・¹³Cの概略予測に溶媒・水・不純物の参考位置を重ね、予測された試料の信号と実験で入り得る信号を別々に確認できます。重ねる参考位置は予測計算そのものを溶媒補正するものではありません。重なった線や近いppmを同定の確証とせず、実測の多重度・積分・試料履歴に戻って判断してください。

よくある疑問

Q. CDCl₃の7.26 ppmは必ず一重線ですか?

¹Hの残留CHCl₃は通常一重線として扱います。ただし、7.26 ppm付近に試料や別の不純物の信号が重なると、単純な一本の線には見えません。¹³CのCDCl₃信号(約77.16 ppm、通常三重線)とも区別してください。

Q. 水が見えなければ、試料は乾燥していますか?

いいえ。水の量が検出できる程度に達しない、信号が重なる、交換で広がるなどの可能性があります。水ピークの有無だけで乾燥状態を保証することはできません。

Q. ¹³Cの溶媒ピークを試料の炭素として数えてよいですか?

数えません。まず選んだ重水素化溶媒の位置と多重度を照合します。ただし試料の信号が溶媒の近くに隠れることはあり、近接領域を一律に無視するのも避けます。

Q. ppmが表と0.1ずれています。別物ですか?

それだけでは判断できません。基準合わせ、温度、濃度、共存成分、特に水や交換性プロトンの変動を確認します。複数の信号と測定条件が整合するかを優先してください。

出典とデータの範囲

本記事とツールの数値は、主にFulmerらの補足資料にある298 Kの報告値を参照しています。実測スペクトルの代わりになるデータベースではありません。最終判断は測定条件、試料情報、複数の信号を合わせて行ってください。